ひうち灘に面し、志島ヶ原を有する今治市桜井地区は、歴史の舞台。菅原道真がこの地に辿り着いたことで、桜井に縁ある「志島」「綱敷」「衣干」の呼び名が生まれました。
かつて天領地だった桜井は、御用米を運ぶ港として栄え、廻船業の拠点地となりました。
廻船業者が各地を巡って漆器を販売するようになると「椀船行商」が始まり、やがて桜井漆器の産地に発展しました。
現在の桜井は、エビやタイ、カニなど瀬戸内海の豊かな地魚が獲れる港町として、かつての美しい風情を残しています。
本プロジェクトでは、今治市桜井地区の文化を未来に受け継ぎ、地域振興に活かすことを目的に、
桜井地区で収集した文化資源をポスターやマップにこめて、その魅力を発信しています。本サイトは、そのポータルサイトです。
桜井地区地域水産業再生委員会×愛媛大学社会共創学部井口梓研究室
今治市桜井地区魅力発信プロジェクト
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継ぎ獅子
今治市の無形民俗文化財に指定されている、獅子舞(継ぎ獅子)。そのルーツは伊勢の太神楽にあり、江戸時代中期に桜井に根付いたと言われている。綱敷天満宮の例大祭では、大人の上に大人が立ち、一番上に獅子児と呼ばれる白塗り化粧の小さな子どもによって披露される、全国でも珍しい芸能である。人を空に向かって組み上げる行為には、神に少しでも近づき五穀豊穣を祈りたいという思いが込められている。「トン、トトン」という太鼓のリズムに合わせて、扇子や鈴を使いながら芸をきめる。「二継ぎ」「三継ぎ」「四継ぎ」と演目が進み、塔が高くなっていくにつれて場の緊張感が高まる。観客が固唾を呑んで見守る中、5メートルの高さで獅子児らは全く物怖じせず横になったり肩の上に立ったりと体勢を変え堂々と立ち技を披露する。見事に芸をきめた際には、観客から盛大な拍手と歓声が送られる。バランスを崩して倒れそうになっても何度も挑戦する姿には獅子児とそれを支える大人の信頼関係がみえる。
桜井漆器
桜井漆器の産地である桜井はかつて江戸幕府の天領に指定され、御用米の運搬が行われていた。その航海術をいかした廻船業で、旧桜井港は海上交通の要衝として栄えた。漆器行商の始まりは文化年間(1804~1818年)頃とされ、運搬用の帆船は「椀船」と呼ばれるようになった。漆器専業となった行商人は、春には九州地方の陶器を、秋には近畿地方の漆器を扱い、日本各地の港とのつながりを強めた。行商が軌道に乗り成功を収めると、最大の取引相手であった漆器の名産地、紀州黒江より漆器製造の技術を取り入れ、桜井で漆器製造を始めるようになった。その後、海南、輪島、山中、越前、会津など日本各地の漆器産地から職人を招き、優れた技術を導入したことにより桜井の漆器産業は急成長した。明治後期には、漆器行商を通して桜井の商人が月賦販売方式を生み出し、月賦百貨店も開業された。綱敷天満宮には肥前伊万里、衣干岩の横には紀州黒江の商人が寄付した灯籠があり、ここ桜井の港が九州や近畿へとつながる玄関口であったことが垣間見える。
菅原道真と衣干岩
桜井沖は潮の流れが速く、ひうち灘の難所として知られている。この地には1000年以上前に菅原道真が流れ着いたという伝説が残っている。道真は九州大宰府へ配流される途中桜井沖で嵐に遭い、命からがら志島の浦に漂着し、濡れた衣を岩の上に干した。この出来事がきっかけでこの岩は「衣干岩」と呼ばれるようになった。桜井の人々は道真一行を新鮮な魚を献上するなどして手厚くもてなした。それに感激した道真は自像を刻んだ船の舵を素波神として祀るように伝え、桜井の人々に渡した。素波神社はかつて日本各地へ漆器を売りに行くのに使われた椀船があった内港に向かって、現在も祀られている。
綱敷天満宮の「綱敷」は道真を迎える際に敷物が無かったため、漁民が漁網を丸めて円座の代わりとしたことに由来するとされる。境内には筆塚や座牛など道真に縁のあるものが多く祀られる。学問の神として名高い道真と関係の深いこの綱敷天満宮には、毎年多くの受験生が参拝に訪れ、道真が描かれた絵馬に願いをこめる。
椀船の港
現在の桜井漁港の南部にある旧桜井港には、椀船の発着点となった港跡-「椀船の港」がある。椀船とは、桜井発祥の漆器行商船であり、江戸時代に天領であった桜井に周辺の村々から年貢米が集まり、その年貢米を行商船で別子銅山や大阪に運んでいたことに起源する。当時、大阪に米を運んだ際に、大阪商人に勧められ紀州黒江漆器を旧桜井港に持ち帰ったところ、飛ぶように売れたことを契機に、各地で漆器を卸すようになった。これが広まり、漆器商人「椀屋」が関わる椀船が多く入港し、桜井の港は活気を呈した。春には伊万里や唐津の陶器を大阪で卸し、秋には紀州の漆器を九州で卸していたことから、桜井には「春は唐津 秋は漆器」という言葉が残されている。椀船行商での販売は月掛け売りで、売り手と買い手の信頼関係によって成り立っており、この月賦販売方式が現在のクレジット支払いの起源となったと言われている。今なお残る椀船の港の礎は、かつて日本を飛び回った桜井の行商人たちの軌跡を伝える。
桜井西国三十三カ所観音霊場
桜井の人々は古くから地蔵を祀り、信仰してきた。そのうちの一つに西国三十三ヶ所にちなんだ「桜井西国三十三カ所観音霊場巡り」がある。「桜井西国三十三カ所観音霊場巡り」の観音地蔵は、江戸時代の嘉永年間(1848~1854)に西国巡りができない人のために、喜右エ門と宮蔵が中心となり桜井有志が寄進したものと伝わる。その後、大正時代に旧櫻井町を一巡できるように設置され、庶民信仰として広まった。地蔵ひとつひとつの縁起やご利益が異なっており、個々の佇まいは私たちに様々な表情を見せてくれる。中には『三界萬霊』と彫られ、すべての精霊を供養する大切さを諭す地蔵も見られる。昔の人々はこれらの地蔵にお参りすることで「お産が楽になる」、「夜泣きがおさまる」などと言い、深い信仰心を寄せてきた。現在でも日々お参りする人々に出会う。手作りの前かけを着て、花や水が供えられた地蔵からは、桜井の人々が地蔵を大切に思う心が伝わる。各所に見られる地蔵は桜井の暮らしを見守るように静かに佇んでいる。
赤灯台と唐子浜
「唐子」という地名の由来は藤堂高虎が今治城を築城した江戸時代にまで遡る。今治城の建築資材を得るために桜井の国府山城を解体した高虎はその城跡に松を植えた。その松の枝ぶりが当時の瀬戸物に絵付けされる唐の子供の頭に似ていたことから「唐子」と呼ばれるようになったとされる。ここ唐子を代表する美しい景勝地が、瀬戸内海国立公園に指定されている唐子浜である。沖に目を向けると、唐子浜の景観を象徴する「赤灯台」が見える。赤灯台は明治35年に来島海峡に建てられた日本で5番目の西洋式灯台で、当時は「鴻の瀬灯標」と呼ばれていた。その役目を終えると一時は解体される計画が立ったが、住民たちの惜しむ声に応えて昭和53年に現在の場所に移築された。その海岸沿いにはレンガ造りのレトロな建物をみつけることができる。これは赤灯台と同時期に建てられた大浜灯台の灯台吏員退息所を移築したものである。これらの建物は今治の近代化遺産として今日も地域の人々によって大切に保存されている。
綱敷天満宮 春季例大祭
桜井には、子どもが主役になる日がある。それは5月5日の「こどもの日」、綱敷天満宮の例大祭である。祭りの朝、獅子が舞う本殿から、3台の子ども神輿が勢いよく駆け出してくる。子どもたちは全力で走りながら、境内を南、北、西、東の順に四方固めを行い、境内を出て衣干岩の御旅所へ。子ども神輿を先導する子どもは、鬼の面を被り、竹の杖を道に打ち付け、邪気を払いながら歩く。御旅所では、幼い巫女が、左手に扇、右手に鈴を持ち、太鼓の音にあわせて、人々の健康や地域の繁栄を願って舞を奉納する。その姿は美しく、大人びて見え、地元の女の子たちの憧れでもある。夕方になると、練り歩きを終えた3台の神輿は最後の御旅所に集まり、神事の後に神輿の屋根を覆う赤い布を小さく切って、御守りとして配る。それを握りしめた子どもたちは、また神輿を担いで本殿へと駆け抜けていく。子ども神輿は、綱敷天満宮から浜地区、郷地区、そして旦地区をまわり、遠く石風呂まで、一日かけて渡る。再び綱敷天満宮に戻る頃、先導の子どもが持つ竹は短くすり減っている。これこそ、桜井の子どもたちにとって、誇りと成長の証だ。
浜桜井の歴史
旧櫻井町は、江戸期に天領に指定され、明治末期まで漆器行商で栄えた。大正11年に発行された「愛媛縣越智郡櫻井町大字櫻井濱地圖」をみると、現在の桜井港は砂浜であり、大川に続く内港が当時の桜井港であった。椀船の港(桟橋の土台のみ)の北側には多くの漆器倉庫が立ち並び、綱敷天満宮の松林を越えて、旭町や常盤町、榮町・新榮町、蛭子町等には漆器業者が集まっていた。古天神神社(古国分神社)を中心に東西に分けて東天神町、西天神町が位置し、この西天神町から蛭子町に至る大通りが旧櫻井町を南北に貫く今治街道であった。この往還道に沿って、呉服屋や今商銀行、旅館、町役場や駐在所があり、昭和初期には西天神側に桜井劇場が建てられるなど、行政と商業の中心地として賑わっていた。往還道と東西に交差する梅田町1丁目から4丁目に至る通りが旧櫻井町の中心商店街であり、中狭町、柳町、新榮町に住む多くの人が集まり、活気ある港町の商業地を形づくっていた。古地図を片手に歩いてみると、旧櫻井町の歴史が面白い。
桜井の町並みと屋号
江戸時代末期から明治にかけて廻船業の行商に従事していた櫻井村の親方は、次第に製造業や卸売業に転向していった。とりわけ漆器業は、第一次世界大戦後の好況時代に急速に発展し、製造戸数60、技術職人は360名にまで達した。当時の桜井漆器の発展を知る資料に、大正11年の「愛媛縣越智郡櫻井町大字櫻井濱地圖」がある。裏に記された行商人の一覧をみると、桜井における漆器製造と販売業者は57軒存在していたことがわかる。旧櫻井町のなかで漆器業者が多くみられたのが旭町や榮町、梅田町、西天神町、蛭子町であり、「小谷屋」や「井野屋」といった屋号で商いを行っていた。漆器業の活況は、当時の町場からも読み取れ、呉服や菓子、醸造業など、様々な業種が立ち並んでいた。酒屋の「油屋」、薬屋の「飴屋」-商売人や行商人たちは、のれんや廻船旗に屋号紋を記し、互いに屋号で呼び合っていた。所々残る古い建物や桜井の町並みから、漆器業の盛況と商業で栄えた当時の面影を見ることができる。
志島ヶ原
志島ヶ原は菅原道真が大宰府に流される途中に嵐に遭い漂着した地である。道真が嵐の中で無事に陸にたどり着きたいと目指したことが「志島」の由来とされる。昭和16年に国の名勝地に指定され、昭和62年に日本の「白砂青松百選」に指定された。約11haの広大な敷地には約2500~3000本のクロマツやアカマツ、アイグロマツの老木が立ち並び、まさに白砂青松と呼ぶにふさわしい景色が広がる。志島ヶ原の海岸には黒船襲来に備えてつくられた台場の跡があり、そこから望むひうち灘には平市島や小平市島などが浮かぶ。志島ヶ原は梅の名所であり、約1500本の梅が植えられた梅林では、毎年2月下旬に「梅花祭」が開催される。梅林の遊歩道は、菅原道真を祀る綱敷天満宮へと続く。この美しい志島ヶ原を守るために地元の桜井中学校の生徒や志島ヶ原の保存管理を行う志島ヶ原保護協会の方々により清掃や植樹が続けられている。長年大切に守られてきた美しい松林は、今も地域の人々の手によって支えられている。
厳島神社 宮島さん
桜井の夏には7歳までの男児の健やかな成長を願い、長さ1mほどのわら舟を瀬戸内海に流す「宮島さん」の伝統行事がある。綱敷天満宮の敷地内にある厳島神社の祭事であり、本社の管絃祭に合わせて毎年旧暦の6月17日に行われる。海に流すわら舟は、直径20cmほどのわら束と針金を組み合わせて作られ、帆や舵、国旗の装飾がされている。帆には男児の名前とともに鳥居、松、波、赤い月が描かれ、ニシノ岩にあった鳥居や志島ヶ原の松などが表されている。わら舟は、かつて各家庭で作られていたが、現在は有志の職人が伝統技術を受け継ぐ。夕方になると男児とその家族、3世代が集まり、舟と共に祈願を受ける。舟にのる行燈には火が灯され、砂浜に並ぶ舟々が赤い光に包まれる。男児の父がわら舟を砂浜まで担ぎ、沖まで泳いで運んでいく。子どもたちは真剣な眼差しでその背中を見つめ、父の手を離れたわら舟は風を受け大海原を進む。いくつもの灯りが暗いひうち灘を小さく照らし、波に揺られる風景は幻想的だ。
今治藩主の墓所
瀬戸内海・唐子浜を望む小高い古国分・寺山の山腹には、今治藩主の墓がある。この墓所には、歴代の今治藩主、初代久松定房、3代定陳、4代定基が安置されている。3.6メートルの巨大な宝篋印塔は愛媛県の指定史跡である。墓碑につらなる67基の燈籠と老松の林が広がる空間は荘厳な雰囲気を漂わせ、今治藩久松家の歴史に心が重なる。
唐子浜周辺はかつて今治藩の領地であった。唐子浜の港から今治藩主の墓まで「お通り道」と呼ばれる通りがあり、位ある者が船で訪れた際にはこの道を通っていたと伝わる。山の麓に沿って続く道は姫が通る道だったことから、地元の人から「姫路」とも呼ばれ、かつては古国分に住む人を「姫路の〇〇さん」と親しみを込めて呼んでいたそうである。その愛称を耳にすることは少なくなったが、現在も残る「姫路」をたどれば、古国分と今治藩の縁が見えてくる。
ひうち灘の植物
ひうち灘に面して約8㎞にわたって広がる桜井海岸には、瀬戸内海の多種多様な海浜植物がみられる。そのなかでも淡い紫色の小さな花をつけるクマツヅラ科のハマゴウの群生は目を惹く。ハマゴウは古くから人々の生活の中に根付いてきた植物の一つである。葉は燃やして香とし、果実は鎮痛・鎮静作用がある漢方薬の材料として使われてきた。戦前は砂防を目的として全国に広がり、7月から9月にかけてその姿を見ることができる。砂浜には、全国に分布するハマヒルガオや本州関東以南のハマユウ(ハマオモト)などが顔をのぞかせる。桜井海岸よりさらに北、織田ヶ浜では絶滅危惧種のハマビシがみられる。ハマビシは砂浜の減少より個体数が減りつつある貴重な植物であり、黄色い五枚の花弁を持つハマビシが咲くのは、環境の整った砂浜の証である。これらの花々は晩夏から中秋まで人々の目を楽しませる。海水浴も終わり、小さな花々を探して静かな渚を歩く-桜井海岸の楽しみの一つである。
神輿囃子
獅子が引き出す 大輿 小輿 ア ヨイヤナー ヨイヤナー
四方固めて 渡御につく ソラ ヨーイヨイ ヨイヤーナ
ハリワイナ コリワイナ ソラヨーイ トセ
5月5日、例大祭の朝。綱敷天満宮境内に長老が唄う神輿囃子が響き渡り、神輿の宮出しが行われる。この神輿囃子は江戸時代に流行した「伊勢音頭」が桜井の地に伝わったものとされる。「今治名物 桜井浜は 千本松原 白い浜」や「時化に流され 道真公が 衣干したる 衣干し岩」、「木地くり 下地に 漆をかけて 蒔絵 沈金 技がある」など、22番までの歌詞には、桜井の歴史や名勝がこめられている。祭りの日、神輿は一日かけて桜井を練り歩く。神輿を先導するトラックから神輿囃子が流れると、氏子が家からでて御花を渡し、舁夫が神輿を練る。夕方の宮入りまで、桜井の町に響き渡るこの神輿囃子が例大祭を盛り上げる。
MAPダウンロード
まち歩きマップをもって、桜井の歴史散策にでかけましょう。
旧今治街道から桜井港の間に位置する場所を「浜桜井」といいます。この浜辺にできた港町は、廻船業、漆器業、漁業の盛況を背景に、有数の商業地として発展してきました。
桜井の港町を歩いて散策したら、桜井漁港を出発して、ひうち灘にそって自転車を走らせてみましょう。瀬戸内海の美しい砂浜、多島海の景観、青々とした松林など、瀬戸内海の豊かな自然との歴史文化にふれることができます。
桜井地区のまち歩きマップ(PDF)、サイクリングマップ(PDF)は2019年2月時点の情報です。マップはマップ画像からダウンロードしてください。個人での活用のみならず、地域活動や学校教育、観光PR、まち歩きイベントでの配布も可能です。
桜井の文化を未来に受け継ぎたい
私たちと桜井地区との出会いは、2017年でした。この2年間を通して、桜井地区の多くの方々に出会い、ひうち灘の自然、港町と廻船業の歴史、桜井漆器の伝統、古い町並みの風景、西国地蔵信仰、継ぎ獅子などの伝統芸能、たくさんの素晴らしい文化にふれることができました。桜井地区の方々が文化を未来に受け継ぎたいと想う「願い」こそ、本プロジェクトが最も大切にしたテーマであり、今回のコンテンツ制作のきっかけでもあります。
本プロジェクトを通して、一人でも多くの方に、桜井地区の魅力に気が付いていただけると幸いです。
コンテンツ制作に際して、現地調査にご協力いただきました桜井地区住民の皆様、関係者の皆様に心より御礼申し上げます。本プロジェクトの調査研究は、愛媛大学井口梓研究室が桜井地区地域水産業再生委員会、及び今治市役所と協働で実施し、コンテンツのデザイン・原稿作成・写真撮影は同研究室が実施しました。